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1985年9月号「毎月1日を兵器廃絶の日に。そうすれば、戦争を防げます」
八月という月は私にも、日本にとっても忘れることのできない、痛切な思い出のある月として記憶に刻まれています。
8月6日広島に原子爆弾が投下されて数百万の無辜の市民が殺傷され、8月9日には長崎にも投下され数知れない犠牲者が出されました。
あの日から40年、広島で長崎で原爆に反対し、世界平和を祈願し、罪なくしてなくなった人びとの慰霊の行事が行われました。
しかし、悲しいことにその運動も統一された運動とならずイデオロギーによって分裂の危機に立たされました。
何ということでしょうか、あれほどの犠牲を払い、再びあやまちは繰り返しませんと誓っていながら、考え方の違いだけで力が一つに結集されないのです。
私は声を大にして叫びつづけています。戦争を起こさないためには、核兵器ばかりでなく、すべての兵器をなくすために、毎月1日を「兵器廃絶・世界平和の日」とし、全世界の市民がいっせいに行動を起こそうではないかと。ソ連の国民も、米国の国民も誰も戦争を望んでいません。みんな仲がいいのです。それなのに権力者だけが、それを妨げているではありませんか。全世界の国民が心を一つにして兵器廃絶のために立ちあがれば戦争は防げます。
私はそのために全生命を賭けて行動します。40年前の8月15日、あの敗戦を私は満州(中国東北部)で迎えました。あれから40年、私はいつも全力を尽くしてきました。人間は幸せに生きる権利がある。宇宙には誰もが平和で楽しく生きるための仕組みがあると信じているからです。
考えず、ただひたすらその仕組みに従って、その時、その場で全力を尽くして生きてきました。
8月になるととりわけ今年は40年という節目の年だけにいろいろなことが話され、書かれ、報道されています。
中国残留孤児が肉親を求めて今年も数百人の人たちが日本を訪れるということです。
「残留孤児」何という悲しい響きを持った言葉でしょう。
私は満州からの引揚げ者です。あのときの思い出は忘れることができません。私は子供の頃に怪我をし左手が普通に曲がりません。そのために兵役免除となったのです。同じ年ごろの友だちがみな兵隊にいけるのに私は<兵役免除>ということでどんなに恥かしい、口惜しい思いをしたか知れません。それでもせめてお国のためにと満州開拓団に参加したのです。
ですから終戦は民間人で迎え、生命からがら脱出できたのです。そのとき乳飲子を抱いた人びとは、「せめてこの子だけは生きていてほしい、どうか無事に育ててください」と中国の人たちに頼んで、飲まず食わずで日本に帰ったのです。あのとき赤ちゃんや小さい子どもをつれていたら決して生きては帰れなかったのです。
そのとき預けられ、それからひたすら育ててくださった中国の人たち、その幼児が「残留孤児」と呼ばれる人たちなのです。
あのときお父さんやお母さんが中国の人びとに預け、頼んでくれたからこそ、40年間を生きてこられたのです。
私は声を大にして叫びたい。あのときあなたたちのお父さんお母さんは、どうすることもできなくて、せめて大きく育ってほしいと中国の人たちにお願いしたのです。決して残留や置きざりにしてきたのではないのです。いま肉親を求めて日本に来られようとする皆さんは決して親をうらんではなりません。育ててくださった中国の育ての親御さんに感謝し、せめても手がかりをしっかり握りしめて、生みの親御さんを尋ねてください。
また九死の中に一生を得て引揚げてこられている方々はお子さんのために、育ててくださった中国の人たちのために、どんな小さな手がかりでも見つけだして再会できるようにしてあげていただきたのです。
あの日から40年、まだまだ平和だ、平和だと安心はできません。しかし私は、戦争は絶対に起こさせない、そのために全生命を賭ける決意をしています。そのために全力をかけています。全世界の人びとはみな優しく、思いやりのある人ばかりです。誰が戦争をしたいと思いますか。絶対平和は守れます。